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徳川(とくがわ)家康(いえやす)

徳川(とくがわ)家康(いえやす)は、日本の戦国(せんごく)時代から江戸(えど)時代にかけての武将(ぶしょう)であり、江戸(えど)幕府(ばくふ)幕府(ばくふ)とは武士(ぶし)による政権(せいけん)のこと)の初代(しょだい)将軍(しょうぐん)として知られています。(かれ)の人生は、多くの困難(こんなん)挑戦(ちょうせん)()ちていましたが、最終的(さいしゅうてき)には日本全土(ぜんど)統一(とういつ)し、平和(へいわ)な時代を(きず)くことに成功(せいこう)した人物です。

そんな波乱(はらん)()ちた徳川(とくがわ)家康(いえやす)の人生を紹介(しょうかい)します。

徳川(とくがわ)家康(いえやす)(1543年〜1616年)は、三河国(みかわのくに)岡崎(おかざき)現在(げんざい)愛知県(あいちけん)岡崎市(おかざきし))で生まれました。幼少期(ようしょうき)の名前は竹千代(たけちよ)と言い、松平(まつだいら)()の一族でした。徳川(とくがわ)家康(いえやす)の父、松平(まつだいら)広忠(ひろただ)三河(みかわ)の小さな大名(だいみょう)(むかし)領主(りょうしゅ)のこと)でしたが、その地位(ちい)不安定(ふあんてい)でした。そのため、(おさな)家康(いえやす)今川()に人質として()し出すことで領地(りょうち)簡単(かんたん)()()まれないようにしました。その後、竹千代(たけちよ)は12年もの期間(きかん)を今川()領地(りょうち)である駿河国(するがのくに)現在(げんざい)静岡県(しずおかけん)静岡市(しずおかし))で()ごすことになります。人質としての生活(せいかつ)様々(さまざま)苦労(くろう)がありましたが、この経験(けいけん)こそが家康(いえやす)忍耐力(にんたいりょく)戦略的(せんりゃくてき)思考に大きく影響(えいきょう)(あた)えたと言われています。

家康(いえやす)の生まれた岡崎城(おかざきじょう)

織田(おだ)信長(のぶなが)が1560年の桶狭間(おけはざま)(たたか)いで今川義元(よしもと)()()った後、家康(いえやす)織田(おだ)信長(のぶなが)同盟(どうめい)(むす)びました。この同盟(どうめい)は、(かれ)勢力(せいりょく)を広げるための重要(じゅうよう)なきっかけとなりました。信長(のぶなが)との協力(きょうりょく)により、家康(いえやす)遠江(とおとうみ)現在(げんざい)静岡県(しずおかけん)浜松市(はままつし))を支配(しはい)し、勢力(せいりょく)拡大(かくだい)しました。

家康(いえやす)躍進(やくしん)したことから出世(しゅっせ)(じょう)とも()ばれる浜松城(はままつじょう)

1570年、姉川の(たたか)浅井(あざい)長政(ながまさ)朝倉(あさくら)義景(よしかげ)連合軍(れんごうぐん)勝利(しょうり)したことで、家康(いえやす)評判(ひょうばん)はさらに高まりました。しかし、1572年の三方ヶ原(みかたがはら)(たたか)では、武田(たけだ)信玄(しんげん)大軍(たいぐん)敗北(はいぼく)し、(いのち)からがら逃走(とうそう)します。家康(いえやす)はこの経験(けいけん)を通じて戦術(せんじゅつ)(みが)き、生き()びるためにより慎重(しんちょう)戦略的(せんりゃくてき)な考え方を()()けたといわれています。

1582年、本能寺(ほんのうじ)(へん)織田(おだ)信長(のぶなが)明智(あけち)光秀(みつひで)()たれた後、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)関白(かんぱく)天皇(てんのう)臣下(しんか)として一番(いちばん)高い地位(ちい))となり時代の主導権(しゅどうけん)(にぎ)ります。摂津国(せっつのくに)(現在(げんざい)大阪府(おおさかふ)大阪市(おおさかし))に豪華(ごうか)大阪(おおさか)(じょう)(きず)き、天下統一(とういつ)目前まで勢力(せいりょく)拡大(かくだい)します。その秀吉(ひでよし)(いきお)いに()され、家康(いえやす)秀吉(ひでよし)主従(しゅじゅう)関係(かんけい)(むす)びます。しかし秀吉(ひでよし)の死後、家康(いえやす)次第(しだい)に力を強め、1600年の関ヶ原(せきがはら)(たたか)石田(いしだ)三成(みつなり)率いる西軍(せいぐん)勝利(しょうり)しました。この(たたか)いは、「天下分け目の決戦(けっせん)」と言われ、勝利(しょうり)した家康(いえやす)結果的(けっかてき)に日本全土(ぜんど)統一(とういつ)することとなりました。

日本の統一(とういつ)までに大きな功績(こうせき)(のこ)した織田(おだ)信長(のぶなが)豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)徳川(とくがわ)家康(いえやす)の三人を「戦国(せんごく)時代の三英傑(えいけつ)才能(さいのう)知恵(ちえ)がとても(すぐ)れている人のこと)」と()びます。

天下分け目の決戦(けっせん)と言われる関ヶ原(せきがはら)(たたか)いを(えが)いた屏風(びょうぶ)岐阜(ぎふ)関ケ原(せきがはら)古戦場(こせんじょう)記念館(きねんかん)(ぞう)

1603年、家康(いえやす)天皇(てんのう)より征夷(せいい)(たい)将軍(しょうぐん)武士(ぶし)の中での最高(さいこう)権力者(けんりょくしゃ))に任命(にんめい)され、現在(げんざい)の東京に江戸(えど)幕府(ばくふ)を開きました。これにより、日本は戦乱(せんらん)の時代を()け、200年以上(つづ)く「江戸(えど)時代」に突入(とつにゅう)しました。

現在(げんざい)(こう)(きょ)位置(いち)していた江戸(えど)(じょう)

家康(いえやす)による統治(とうち)は、(ほう)秩序(ちつじょ)重視(じゅうし)し、農業(のうぎょう)商業(しょうぎょう)発展(はってん)奨励(しょうれい)しました。(たと)えば、法律(ほうりつ)武家諸法度(ぶけしょはっと))を制定(せいてい)したり、大名(だいみょう)に一年おきに自分の領地(りょうち)から江戸(えど)へ来させたり(参勤交代(さんきんこうたい))して(かく)大名(だいみょう)への統制(とうせい)()かせ、貨幣(かへい)統一(とういつ)街道(かいどう)整備(せいび)などによって経済(けいざい)活性化(かっせいか)(うなが)しました。また現代(げんだい)教育(きょういく)機関(きかん)にあたるような寺子屋(てらこや)設立(せつりつ)奨励(しょうれい)し、教育(きょういく)発展(はってん)にも力を入れました。こういった家康(いえやす)()()みにより、日本は安定(あんてい)した社会を(きず)くことができました。

家康(いえやす)は、自らの健康(けんこう)にも気を使い、長生きするために様々(さまざま)工夫(くふう)をしたと言われています。特に食生活(せいかつ)に気を(くば)り、質素(しっそ)な食事を心がけたり、自分で(そだ)てた薬草(やくそう)(くすり)を作ったりしていました。また、日々の運動や健康(けんこう)管理(かんり)()かさず行いました。その結果(けっか)家康(いえやす)は73(さい)まで生き、当時(とうじ)としては非常(ひじょう)に長生きでした。

家康(いえやす)の死後、(かれ)遺体(いたい)静岡県(しずおかけん)久能(くのう)(さん)(ほうむ)られましたが、その後、日光(にっこう)東照宮(とうしょうぐう)に移されました。日光(にっこう)東照宮(とうしょうぐう)は、家康(いえやす)(まつ)るために建てられた神社(じんじゃ)であり、現在(げんざい)でも多くの人々が(おとず)れる観光(かんこう)名所(めいしょ)となっています。家康(いえやす)(のこ)した教えは、(かれ)子孫(しそん)である徳川(とくがわ)家によって()()がれ、日本の歴史(れきし)に大きな影響(えいきょう)(あた)えました。

徳川とくがわ家康いえやすまつ日光にっこう東照宮とうしょうぐう陽明門ようめいもん

家康(いえやす)の人生は、困難(こんなん)()()えながらも冷静(れいせい)判断(はんだん)戦略的(せんりゃくてき)な思考を持ち(つづ)けたことで、日本全土(ぜんど)統一(とういつ)し、平和(へいわ)な時代を(きず)いた一つの(れい)です。その業績(ぎょうせき)は、今もなお多くの人々に尊敬(そんけい)され、日本の歴史(れきし)(きざ)まれています。

家康(いえやす)の有名な教えの一つに「()かぬなら()くまで待とうホトトギス」という言葉(ことば)があります。この言葉(ことば)は、忍耐(にんたい)強く状況(じょうきょう)見守(みまも)り、最善(さいぜん)の時を待つ姿勢(しせい)(あらわ)しています。生涯(しょうがい)を通じて、この教えは家康(いえやす)の行動に(あらわ)れており、多くの困難(こんなん)状況(じょうきょう)()()える力となりました。

文:鈴木大
写真:photoAC

イラスト:Adobe Stock

(2024.10.8)

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