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豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)

豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)(1537年〜1598年)は、日本の戦国(せんごく)時代から安土(あづち)桃山(ももやま)時代にかけて活躍(かつやく)した武将(ぶしょう)で、後に天下統一(とういつ)()たした人物です。(かれ)生涯(しょうがい)は、農民(のうみん)から天下人へと上り()めた壮大(そうだい)な物語であり、日本の歴史(れきし)において重要(じゅうよう)役割(やくわり)()たしました。

そんな豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)激動(げきどう)の人生を紹介(しょうかい)していきます。

豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)は、1537年に尾張国(おわりのくに)現在(げんざい)愛知(あいち)(けん)西部(せいぶ))で生まれました。(おさな)いころの名前は日吉丸(ひよしまる)といい、父は農民(のうみん)であり、秀吉(ひでよし)(おさな)(ころ)(まず)しい環境(かんきょう)の中で(そだ)ちました。しかし、秀吉(ひでよし)幼少期(ようしょうき)から(あたま)回転(かいてん)(はや)く、機転(きてん)()性格(せいかく)であったと(つた)えられています。 それを(あらわ)す有名なエピソードに以下のようなものがあります。

織田(おだ)信長(のぶなが)に仕えるようになった(わか)(ころ)秀吉(ひでよし)は「草履(ぞうり)()り」という下働(したばたら)きをしていました。草履(ぞうり)()りの役目(やくめ)は、主人が外出する(さい)に、草履(ぞうり)準備(じゅんび)して(わた)すことです。ある(さむ)い冬の日、信長(のぶなが)が外出するために秀吉(ひでよし)草履(ぞうり)を持ってくるように命令(めいれい)しました。この冬の時期(じき)草履(ぞうり)(つめ)たく(かた)くなってしまうため、秀吉(ひでよし)は事前に自分の(ふところ)(着物と(むね)のあいだ)で草履(ぞうり)(あたた)めておきました。これにより、信長(のぶなが)草履(ぞうり)()いたときに、その(あたた)かさに(おどろ)き、感心(かんしん)したと(つた)えられています。

この機転(きてん)()いた行動が、信長(のぶなが)の心を()ち、秀吉(ひでよし)信長(のぶなが)から「ただ者(ふつうの人)ではない」と評価(ひょうか)されるようになりました。

このエピソードは、秀吉(ひでよし)がただの下働(したばたら)きにとどまらず、自分の役割(やくわり)以上のことを考え、行動する能力(のうりょく)を持っていたことを(しめ)しています。また、このような機転(きてん)が、後に(かれ)信長(のぶなが)信頼(しんらい)()て、出世していくきっかけになったとされています。

その後、秀吉(ひでよし)急速(きゅうそく)に出世し、信長(のぶなが)側近(そっきん)(近くで仕える人)として重要(じゅうよう)役割(やくわり)()たすようになりました。

1573年、信長(のぶなが)浅井(あざい)長政(ながまさ)(ほろ)ぼした(さい)秀吉(ひでよし)はその功績(こうせき)(みと)められ、長浜(ながはま)(じょう)城主(じょうしゅ)任命(にんめい)されました。これを()に、秀吉(ひでよし)一国一城(いっこくいちじょう)の主となり、戦国(せんごく)大名としての地位(ちい)確立(かくりつ)しました。(かれ)は、部下(ぶか)民衆(みんしゅう)からの信頼(しんらい)()るために、積極的(せっきょくてき)地域(ちいき)発展(はってん)(つと)めました。

(はじ)めて一国一城(いっこくいちじょう)の主となった長浜(ながはま)(じょう)

1582年、本能寺(ほんのうじ)(へん)織田(おだ)信長(のぶなが)明智(あけち)光秀(みつひで)()たれた(さい)秀吉(ひでよし)はすぐに光秀(みつひで)討伐(とうばつ)し、信長(のぶなが)(あだ)()ちました。この功績(こうせき)により、秀吉(ひでよし)織田(おだ)家の後継者(こうけいしゃ)としての地位(ちい)確立(かくりつ)し、さらに勢力(せいりょく)拡大(かくだい)しました。(かれ)は、1583年に賤ヶ岳(しずがたけ)(たたか)柴田(しばた)勝家(かついえ)信長(のぶなが)重要(じゅうよう)な家来の一人)を(やぶ)り、織田(おだ)家の実権(じっけん)(にぎ)ることに成功(せいこう)しました。

賤ケ岳(しずがたけ)合戦場(かっせんじょう)(あと)にある豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)とされる銅像(どうぞう)

その後、秀吉(ひでよし)は日本全国(ぜんこく)の大名を次々(つぎつぎ)(したが)え、1585年には関白(かんぱく)天皇(てんのう)臣下(しんか)として一番(いちばん)高い地位(ちい))に任命(にんめい)されました。これにより、(かれ)形式(けいしき)上でも日本の最高(さいこう)権力者(けんりょくしゃ)となりました。1587年には九州(きゅうしゅう)(おさ)め、1590年には小田原(おだわら)()めで北条(ほうじょう)()降伏(こうふく)させ、日本全土(ぜんど)統一(とういつ)しました。こうして、秀吉(ひでよし)は天下統一(とういつ)達成(たっせい)し、日本の歴史(れきし)において大きな功績(こうせき)(のこ)しました。

秀吉(ひでよし)統治(とうち)は、多くの改革(かいかく)政策(せいさく)を通じて、日本社会に大きな影響(えいきょう)(あた)えました。(かれ)は、太閤検地(たいこうけんち)()ばれる全国的(ぜんこくてき)な土地調査(ちょうさ)を行い、土地の所有者(しょゆうしゃ)収穫量(しゅうかくりょう)正確(せいかく)把握(はあく)しました。これにより、税制(ぜいせい)整備(せいび)し、国家の財政(ざいせい)基盤(きばん)強化(きょうか)しました。

また、刀狩(かたながり)実施(じっし)し、農民(のうみん)から武器(ぶき)()り上げることで、戦乱(せんらん)(ふせ)ぎ、平和(へいわ)な社会を(きず)こうとしました。

さらに、秀吉(ひでよし)朝鮮(ちょうせん)()めようとし、1592年と1597年の二度にわたり、朝鮮(ちょうせん)半島(はんとう)(へい)を送りました。これが「文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)(えき)」として知られる戦争(せんそう)です。しかし、この出兵(しゅっぺい)成功(せいこう)せず、秀吉(ひでよし)晩年(ばんねん)における大きな挫折(ざせつ)となりました。

文禄(ぶんろく)慶長(けいちょう)(えき)()東萊府殉節図(とうらいふじゅんせつず)韓国(かんこく)陸軍(りくぐん)士官(しかん)学校(がっこう)博物館(はくぶつかん)所蔵(しょぞう)

1598年、豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)京都(きょうと)伏見(ふしみ)(じょう)で病に(たお)れ、62(さい)()くなりました。(かれ)の死後、豊臣(とよとみ)家の勢力(せいりょく)次第(しだい)(よわ)まり、最終的(さいしゅうてき)には徳川(とくがわ)家康(いえやす)()って代わられることとなります。しかし、秀吉(ひでよし)業績(ぎょうせき)は日本の歴史(れきし)(ふか)(きざ)まれており、(かれ)生涯(しょうがい)農民(のうみん)から天下人へと()り上がったサクセスストーリーとして、今もなお多くの人々に語り()がれています。

秀吉(ひでよし)の人生は、知恵(ちえ)勇気(ゆうき)、そして人々を()きつけるカリスマ(せい)(charisma)によって(きず)かれたものでした。(かれ)数々(かずかず)困難(こんなん)()()え、戦国(せんごく)時代の混乱(こんらん)(おさ)め、日本全土(ぜんど)統一(とういつ)するという偉業(いぎょう)()()げました。その統治(とうち)は、後に(つづ)江戸(えど)時代の平和(へいわ)安定(あんてい)基盤(きばん)(きず)く上で大きな役割(やくわり)()たしました。

文:鈴木大

イラスト:イラストAC

写真:photoAC/パブリック・ドメイン

(2024.10.1)

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