織田信長
織田信長(1534年〜1582年)は、日本の戦国時代を代表する戦国大名(昔の領主のこと)であり、その革新的な戦術と大胆な政策の実行などで広く知られています。信長の人生は日本の歴史を大きく変える出来事に満ちています。
そんな織田信長の激動の人生を紹介していきます。
織田信長は、1534年に尾張国(現在の愛知県西部)で生まれました。幼名(子供のころの名前)は吉法師と言い、父は織田信秀でした。織田家は信秀の代まで尾張の地方大名に過ぎませんでしたが、信長はその地位を大きく変えていくことになります。
信長は、幼少期から独特の行動や奇抜な服装で「うつけ者(ばか者)」と呼ばれていました。しかし、信長の内に秘めた野心と才能は次第に明らかになっていくことになります。
1559年、父の死後、家督(一族のトップの地位)を継いだ信長は尾張の統一を目指して積極的に行動を開始しました。1560年、信長の名を全国に知らしめたのが、桶狭間の戦いでした。駿河国および遠江国(現在の静岡県西部~中部)の大名として、とても強い軍隊を持っていた今川義元に対し、奇襲をかけて勝利したことで、信長の名前は広く知られることとなります。この戦いの成功は、信長の戦術が天才的であったことを示すものであり、その後の勢力拡大の基盤になったとも言われています。
躍進のきっかけを生んだ桶狭間古戦場
信長の居城・岐阜城
資料を参考に復元された安土城天守閣の模型
(うぃき野郎,CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
また信長は、戦国時代の常識を打ち破る多くの革新的政策の実施や技術の導入を積極的に進めました。例えば、楽市・楽座という政策を導入し、商売の自由化を促進しました。これにより、経済発展が大きく進み、都市の繁栄につながりました。
また、鉄砲を積極的に導入し、戦術に大きな変革をもたらしました。1575年の長篠の戦いでは、鉄砲隊を組織的に活用し、当時最強と言われていた武田軍の騎馬隊を破りました。
長篠合戦図屏風(長浜市立長浜城歴史博物館蔵)
信長の勢力拡大の過程で、彼は多くの有力な武将や大名を従えました。豊臣秀吉や徳川家康などのように、その後に日本の歴史を大きく動かす人物たちも彼の家来として活躍しました。彼らとの協力により、信長の支配はさらにしっかりしたものとなっていったのです。
しかし、信長の成功は長くは続きませんでした。天下統一まであと少しに迫っていた1582年、家来の明智光秀が謀反(仕えていた人にそむくこと)を起こし、本能寺に宿泊していた信長を襲撃しました。これが有名な「本能寺の変」です。信長は、突如として包囲してきた明智軍に火を放たれ、必死の抵抗もむなしく命を落とすことになります。彼の死は、多くの人々に衝撃を与え、日本の戦国時代の終わりを告げる重要な出来事となりました。
現在の本能寺本堂
このように織田信長の生涯は、日本の歴史に多大な影響を与えました。信長の革新的な政策と戦術は、日本の戦国時代を終わらせ、新たな時代を切り開く基礎となったのです。その勇気と野心は、多くの人々に影響を与え、今でも日本の歴史において重要な人物として記憶されています。
文:鈴木大
イラスト:イラストAC
写真:photoAC/Shotive
画像:ウィキメディアコモンズ/パブリック・ドメイン
(2024.9.24)