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夏目(なつめ)漱石(そうせき) 小説家(しょうせつか)(1867年〜1916年)

文豪(ぶんごう)というのは作家の中でも特に優れた作家を()します。近代の日本文学の中で文豪(ぶんごう)というとやはり(なつ)()漱石(そうせき)でしょうか。漱石(そうせき)は、『坊ちゃん』 『こころ』などの小説を書いた作者です。

夏目(なつめ)漱石(そうせき)

時代が江戸(えど)から明治(めいじ)に移ろうとしている時に、漱石(そうせき)江戸(えど)で生まれました。両親が年をとってからの子供であったのと末っ子だったという理由で、1歳の頃養子(ようし)に出されました。しかしながら、(よう)父母が離婚(りこん)したため8歳の時に(なつ)()家に戻ります。その後、成績が優秀(ゆうしゅう)だった漱石(そうせき)は、一生懸命勉強して、東京帝国(ていこく)大学(現東京大学)の英文科に入学します。非常に優秀(ゆうしゅう)で大学の成績はいつもトップだったそうです。しかしながら、この頃から漱石(そうせき)を死ぬまで悩ませる神経衰弱(しんけいすいじゃく)が始まったらしいのです。幼児期の養子(ようし)の経験や兄達の死などが漱石(そうせき)神経衰弱(しんけいすいじゃく)になった理由だろうと言われています。

漱石(そうせき)が書いた手紙

大学を卒業した漱石(そうせき)は、松山(まつやま)の中学校や熊本(くまもと)の高等学校の教師として英語を教えます。この頃、漱石(そうせき)は結婚しますが、妻は流産(りゅうざん)で精神的に不安定になり結婚生活はあまり上手くいかなかったようです。

熊本(くまもと)で住んでいた家

結婚生活はともかくとして、研究の面では評価された漱石(そうせき)は、1900年に文部省から英語研究のためにイギリス留学を命じられます。せっかくイギリスに渡った漱石(そうせき)ですが、現地の物価は高く、国からの生活費では満足な生活は難しく、そのあげく(せい)()をあげなければいけないというプレッシャーから漱石(そうせき)は再び神経衰弱(しんけいすいじゃく)になってしまいます。漱石(そうせき)は勉強どころではなくなり、日本に帰国するよりほかありませんでした。

1903年に日本へ帰国後漱石(そうせき)は大学で講師の仕事をしますが仕事は上手くいかず、そのせいで相変わらず神経衰弱(しんけいすいじゃく)もよくなりませんでした。そんな折り、親友に気晴(きば)らしに小説を書いたらどうかと(すす)められ、出来上がったのが吾輩(わがはい)は猫である』という題名の小説です。1905年にこの小説が発表されて人気を得ると、漱石(そうせき)(ぼっ)ちゃん』草枕(くさまくら)と次々に小説を発表し、作家を職業にするようになります。「瓢箪(ひょうたん)から(こま)」という(ことわざ)はこんなことを言うのでしょうか。

千円札に(えが)かれた漱石(そうせき)(1984年〜2007年)

写真:写真AC、パブリックドメイン、国立国会図書館

公開:2022.9.27

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The Great Japanese 30の物語[中上級]―人物で学ぶ日本語―』

石川智[著]

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