「もしもし、きのう、そちらにかさを忘れてしまったんですが」
「どんなかさですか」
「赤いかさです」
「赤いかさの忘れ物なら、一本ありますよ」
次に歯医者に行くのは来週だけど、天気予報によると、週末は雨が降るそうだ。早く取りに行ったほうがいい。
私は仕事が終わったあと、歯医者にかさを取りに行った。
「赤いかさの忘れ物、これですね」
受付の人がかさを見せてくれた。
「これは…」
赤いかさだけど、私のじゃない。私のは、持つところも赤いけど、
これは、黒い。それに、このかさは、新しくてきれいだ。
私のよりデザインもすてきだし、きっと値段も高いはずだ。
私もこんなかさをさしてみたいと思った。
これは私のです、と言ったら、このかさを持って帰ることができるかな。
どうしよう。そう言ってしまおうかな…。
うん、言っちゃえ!言っちゃえ!!
もう一人の私の声が聞こえた。
どうしよう!? ドキドキした。
でも、これは、私のじゃないし、うそはいけない。それで、
「このかさは、私のじゃありません。
ほかに忘れ物のかさはありませんでしたか」
と言った。
「忘れ物のかさはこれだけです」
受付の人が言った。
「そうですか。確かここに置いたまま帰ってしまったと思ったんですが…」
「このかさの持ち主がまちがえて、あなたのを持って帰ったのかもしれませんね」
「困ったな。週末雨が降るらしいし…」
「じゃ、今日はこれを持って帰ったらどうですか?」
と受付の人が言った。私はびっくりした。
このかさを持って帰っていいの? ほかの人のかさなのに? もし、私が返さなかったら、受付の人が困るかもしれないのに…?
「来週来るときに持ってきてください。心配しなくても大丈夫。患者さんの連絡先は診察券を作るときに聞いてわかっていますから」
受付の人は笑いながら言った。
「それじゃ、来週までこれをお借りします」
少しの間だけど、このすてきなかさが使えるのはうれしい。
週末は天気予報のとおり雨だった。
私は、赤いかさをさして近所に買い物に行った。
いつもの自分よりちょっとおしゃれな人になったようで、楽しかった。
次の週、借りていたかさを持って歯医者に行った。
待合室に、私のかさを持っている女の人がいて、私にかさを返してくれた。
私もその人にかさを返した。
「ごめんなさい。同じ色だったからまちがえちゃった」
「いいえ。すてきなかさが使えてうれしかったです」
「実はこれ、姉のなんです。先週、ここに来るとき、着ていた服に赤いかさが合うと思ったから貸してもらったんです」
「そうだったんですか」
「姉にかさを返したら、『同じ色だけど、これは私のじゃない! あれは誕生日に彼からもらったかさだから、ぜったいに返して!』って言われちゃいました」
「それは、そうですね」
私たちは笑った。
帰るとき、雨は降っていなかったけど、私はかさをさして歩いた。古くてきれいじゃないけど、このかさがいい。これは初めてもらった給料で買ったかさなのだ。
私は会社に入ったばかりのころを思い出しながらうちに帰った。
文:牧友美子
画像:イラストAC
(2024.9.6)
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