東日本大震災
-私の町の「今」を 撮 る-
あなたが生まれた町は、どんな町ですか。その町は、今も子どものときと同じですか。それとも変わりましたか。映画『きょうを守る』を作った菅野結花さんは岩手県の陸前高田市で生まれました。2011年3月11日14時46分、菅野さんが生まれた町は大きく変わりました。東日本大震災があったからです。
菅野さんは陸前高田の出身ですが、東日本大震災のとき、山梨県の大学の学生でした。地震の前の日、菅野さんは友だちの家に泊まっていました。そして、菅野さんが自分の家に帰ったとき、地震が来ました。とても大きい地震だと思いました。でも、岩手県でも山梨県でも地震はときどきあるし、夕方にアルバイトがあるし、あまり地震について考えていませんでした。
菅野さん
アルバイトが終わったとき、友だちからメッセージが来ました。「早くテレビを見て!」。菅野さんが見たのは、とても大きい津波と「陸前高田」の名前でした。菅野さんは急いで家族に電話をしました。でも、電話はつながりません。いろいろなところに電話をしたり、インターネットで調べたりしました。家族が生きているとわかったのは地震から3日後でした。
地震の後の陸前高田
地震から10日後、インターネットで中学校の友だちの名前を見つけました。地震で亡くなったのです。菅野さんは、それが本当かどうか信じることができませんでした。そして、地震から2週間後、やっと陸前高田に帰ることができました。でも、そこは菅野さんが知っている陸前高田ではありませんでした。自分の家も学校もありません。道も車もありません。そこにあるのは、瓦礫だけでした。
菅野さんの高校
今は地震で何もありませんが、数年後、数十年後には、新しい家や学校、道ができるかもしれません。菅野さんは「今」の陸前高田を忘れてはいけないと思いました。だから、たくさん写真を撮りました。でも、山梨に帰って、その写真を大学の友だちに見せたとき、友だちが「全部の写真が同じに見える」と言いました。菅野さんは「そうだな」と思いました。ここは家があったところ。ここは学校があったところ。菅野さんには全部が特別なところです。でも、知らない人には全部同じ写真に見えたのです。
1年後の陸前高田
「写真だとわからない」菅野さんは思いました。そして、映画を撮ろうと思いました。地震について他の人に教えたいからではありません。菅野さんが地震と「今」の陸前高田を忘れたくなかったのです。菅野さんは、9人の陸前高田の人にインタビューをしました。インタビューは簡単ではありませんでした。地震で家族をなくした人もいます。水で顔を洗うとき、地震やなくなった人を思い出してしまう人もいます。でも、菅野さんは、その人たちの本当の気持ちを聞きたいと思いました。そして、映画『きょうを守る』ができました。
映画『きょうを 守 る』
菅野さんは「多くの人は、東日本大震災のことを少しずつ忘れているかもしれない」と感じています。でも、『きょうを守る』を見て、地震について、何か覚えておいてほしいと考えています。今、『きょうを守る』は日本語だけではなく、英語、韓国語、トルコ語、モンゴル語、インドネシア語、中国語、チェコ語の字幕でも見ることができます。
〈参考文献〉
水野久美(2013)「目の前にある、この風景を残すために。海を渡った、女子大生が作った記録映画」学研教育出版(編)
『伝えなければならない100の物語 第8巻 広がりゆく支援の輪』学研教育出版,pp.215-239
「きょうを守る」字幕プロジェクト〈https://one-taste.org/protect-today/〉(2021年4月29日参照)
文:米本和弘
写真:フォトAC/Flickr
(2021.12.7)