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日本の芝居(しばい)小屋(ごや)八千代座(やちよざ)

八千代座(やちよざ)その華麗(かれい)な世界

熊本県(くまもとけん)山鹿市(やまがし)に「八千代座(やちよざ)」と()ばれる芝居(しばい)小屋(ごや)があります。江戸(えど)時代の芝居(しばい)小屋(ごや)形式(けいしき)(たも)たれた貴重(きちょう)な建物です。日本には(ほか)にもこうした芝居(しばい)小屋(ごや)がいくつか(のこ)っています。それらの芝居(しばい)小屋(ごや)は単に建物として(のこ)っているだけではありません。今も歌舞伎(かぶき)舞踊(ぶよう)などの公演(こうえん)が行われているのです。ただ存在(そんざい)しているのではなく、今もなお活動(かつどう)している、ここに「八千代座(やちよざ)」のすごさがあります。

八千代座(やちよざ)は、1910年(明治(めいじ)43年)12月に、山鹿(やまが)商人(しょうにん)たちがお金を出し()って作った劇場(げきじょう)です。当時(とうじ)山鹿(やまが)熊本県(くまもとけん)商工業(しょうこうぎょう)中心的都市(ちゅうしんてきとし)として(さか)えていました。交通(こうつう)要所(ようしょ)でもあり、温泉場(おんせんば)としても大変(たいへん)人気がありました。こうした地には、娯楽(ごらく)目的(もくてき)とする文化的施設(ぶんかてきしせつ)必要(ひつよう)です。そこで、(みな)の力を結集(けっしゅう)し、芝居(しばい)小屋(ごや)建設(けんせつ)することになったのです。

八千代座(やちよざ)由来(ゆらい)

設計(せっけい)担当(たんとう)し、工事の監督(かんとく)をしたのは、木村亀太郎(きむらかめたろう)という人物でした。(かれ)灯籠(とうろう)()でした。灯籠(とうろう)は東アジアの伝統的(でんとうてき)照明器具(しょうめいきぐ)のことをいいます。とりわけ山鹿(やまが)灯籠(とうろう)は、和紙(わし)だけを使って作る独特(どくとく)のものです。山鹿(やまが)灯籠(とうろう)を作るには高い技術(ぎじゅつ)必要(ひつよう)です。ただし、(かれ)建築(けんちく)については素人(しろうと)でした。さぞや不安であったろうと思います。

けれども、木村亀太郎(きむらかめたろう)研究熱心(けんきゅうねっしん)でした。東京・大阪(おおさか)下関(しものせき)長崎(ながさき)熊本(くまもと)などの劇場(げきじょう)を見学して歩きました。さらに、上海(シャンハイ)(わた)り、西洋の建築(けんちく)を学んだといいます。故郷(こきょう)のために素晴(すば)らしい芝居(しばい)小屋(ごや)建設(けんせつ)したいと必死(ひっし)だったのでしょう。

努力(どりょく)甲斐(かい)があり、とうとう「八千代座(やちよざ)」は完成(かんせい)しました。最初(さいしょ)芝居(しばい)は、1911年(明治(めいじ)44年)1月11日に行われました。多くの人が集まり、連日(れんじつ)満員(まんいん)でした。人々は、(はじ)めて見る(まわ)舞台(ぶたい)や花道に目を見張(みは)りました。天井(てんじょう)()られている色彩(しきさい)(ゆた)かな広告板(こうこくばん)にも(おどろ)きました。

自然光(しぜんこう)()り入れて

花道と座席(ざせき)

最初(さいしょ)公演(こうえん)が終わっても、八千代座(やちよざ)の人気は(おとろ)えませんでした。やがて歌舞伎(かぶき)芝居(しばい)だけではなく、演劇(えんげき)も行われるようになりました。1917年(大正6年)には、有名女優(じょゆう)松井須磨子(まついすまこ)がトルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)原作(げんさく)の「復活(ふっかつ)(Resurrection)」という芝居(しばい)出演(しゅつえん)し、カチューシャを(えん)じました。見事な照明(しょうめい)技術(ぎじゅつ)により、松井須磨子(まついすまこ)(うつく)しさが際立(きわだ)った作品だったそうです。

こうして、山鹿(やまが)の人々は自分の町に「八千代座(やちよざ)」があることを(ほこ)りに思っていました。もちろん、山鹿(やまが)以外からも「八千代座(やちよざ)」を目指(めざ)して、多くの人々がやって来ました。やがて「八千代座(やちよざ)」は山鹿(やまが)文化(ぶんか)中心的(ちゅうしんてき)役割(やくわり)()たす場所(ばしょ)となりました。とくに大正の中期(ちゅうき)から昭和(しょうわ)初期(しょき)にかけて、「八千代座(やちよざ)」は大繁盛(だいはんじょう)し、(はな)やかさを(ほこ)っていました。

階席(かいせき)からの(なが)

*社会の変遷(へんせん)八千代座(やちよざ)(むしば)んでいく

ところが、1931年(昭和(しょうわ)6年)、満州事変(まんしゅうじへん)が起きると、世の中は不景気(ふけいき)になり、芝居(しばい)を楽しむ余裕(よゆう)はなくなります。それでも、慰安会(いあんかい)などを開いたりして、「八千代座(やちよざ)」は経営(けいえい)(つづ)けたのです。

戦後(せんご)になると、状況(じょうきょう)は一転します。娯楽(ごらく)()えていた人々が、「八千代座(やちよざ)」で行われる芝居(しばい)()るために集まってきたからです。建物の老朽化(ろうきゅうか)(すす)むなど、問題はありましたが、八千代座(やちよざ)は人々の心をつかみとったのです。

赤いちょうちんが(なら)

人の心は(うつ)り気なものです。1965年(昭和(しょうわ)40年)(ごろ)から、人々の関心(かんしん)は、芝居(しばい)からテレビに(うつ)りました。「八千代座(やちよざ)」への関心(かんしん)(うす)れていきます。次第(しだい)経営(けいえい)はうまくいかなくなり、とうとう閉鎖(へいさ)することになりました。

芝居(しばい)小屋(ごや)というものは、芝居(しばい)上演(じょうえん)されなくなると、生きる力を(うしな)ってしまうものなのでしょうか。まるで(たましい)()けたかのように、建物は老朽化(ろうきゅうか)していきました。()ちた古い(ふね)のような姿(すがた)になった「八千代座(やちよざ)」は、行く先さえも()(うしな)ったかのようでした。かつて(はな)やかな時代があったことなど(うそ)のようです。

しかし、ここで立ち上がった人たちがいます。このままでは「八千代座(やちよざ)」は()えてしまうという危機感(ききかん)を持った山鹿(やまが)の人々が、立ち上がったのです。とりわけ老人会(ろうじんかい)の人々は熱心(ねっしん)で、まずは屋根瓦(やねがわら)修復(しゅうふく)するために募金運動(ぼきんうんどう)()り広げました。(かれ)らの熱意(ねつい)若者(わかもの)たちの心も動かし、「八千代座(やちよざ)」は少しずつ(よみがえ)っていきます。

今にも芝居(しばい)が始まりそう

1988年(昭和(しょうわ)63年)、「八千代座(やちよざ)」は国の重要(じゅうよう)文化(ぶんか)(ざい)指定(してい)されました。さらに強い(たす)け手も(あらわ)れました。歌舞伎(かぶき)俳優(はいゆう)板東玉三郎(ばんどうたまさぶろう)です。(かれ)は自ら(すす)んで八千代座(やちよざ)舞台(ぶたい)に立ち、その妖艶(ようえん)姿(すがた)披露(ひろう)したのです。これをきっかけに、「八千代座(やちよざ)」はその名を広く知られるようになりました。1996年(平成(へいせい)8年)には大修復(しゅうふく)が行われ、5年をかけて、現在(げんざい)姿(すがた)になりました。見事、復活(ふっかつ)()げたと言えるでしょう。そして、今もなお数多(かずおお)くの人気公演(こうえん)が行われる(はな)やかな芝居(しばい)小屋(ごや)として、そのあでやかな姿(すがた)を見せてくれます。

*「八千代座(やちよざ)」を見て歩こう

八千代座(やちよざ)」は使用している場合(ばあい)をのぞき、自由(じゆう)に見学することができます。

江戸(えど)時代から(つた)わる芝居(しばい)小屋(ごや)忠実(ちゅうじつ)復元(ふくげん)されています。(くつ)()いで中に入ると、数々(かずかず)仕掛(しか)けに(おどろ)きます。

見学順路(じゅんろ)の地図を参考(さんこう)に、簡単(かんたん)説明(せつめい)します。

八千代座(やちよざ)」は木造(もくぞう)二階(にかい)()ての建物です。和風(わふう)建築(けんちく)に見えますが、(はしら)には鉄管が使われ、客席(きゃくせき)には勾配(こうばい)がつけられるなど洋風建築(けんちく)長所(ちょうしょ)()り入れられています。そのためでしょう。熊本(くまもと)地震(じしん)があったときも、(たお)れたりしませんでした。

客席(きゃくせき)には(たたみ)()きつめられています。観客(かんきゃく)(すわ)って、一段(いちだん)高いところにある舞台(ぶたい)(なが)める仕組(しく)みです。

(まわ)舞台(ぶたい)

舞台(ぶたい)中央(ちゅうおう)には(まわ)舞台(ぶたい)設置(せっち)されています。(まわ)舞台(ぶたい)は日本が発祥(はっしょう)のしかけです。「八千代座(やちよざ)」の(まわ)舞台(ぶたい)は、直径(ちょっけい)が、8.4メートル、重さは3.2トンもある立派(りっぱ)なものです。4箇所(かしょ)(ぼう)()()けられており、人力で()して(まわ)します。(ささ)えているレールはドイツ(せい)で、1910年のものだそうです。

舞台(ぶたい)に見とれていて、天井(てんじょう)を見るのを(わす)れないでください。上を見上げると、極彩色(ごくさいしき)天井(てんじょう)(おどろ)くことでしょう。そこには広告(こうこく)のための()()かれています。(ほか)芝居(しばい)小屋(ごや)には見られないもので、「八千代座(やちよざ)独特(どくとく)のものと言えるでしょう。これらは天井(てんじょう)広告(こうこく)()()ばれています。舞台(ぶたい)(はな)やかさに()けない強い色彩(しきさい)とデザイン(せい)には(おどろ)きます。天井(てんじょう)だけではなく、(かべ)広告(こうこく)()(かざ)られています。

極彩色(ごくさいしき)天井(てんじょう)

天井(てんじょう)中央(ちゅうおう)()に、もうひとつ素晴(すば)らしいものがあります。真鍮(しんちゅう)でできたシャンデリアです。これは平成(へいせい)の大修理(しゅうり)(よみがえ)ったものです。第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)中、兵器(へいき)生産(せいさん)するために、金属(きんぞく)政府(せいふ)()し出すように(めい)じられました。その(さい)、シャンデリアは姿(すがた)()しました。今あるシャンデリアは、修理(しゅうり)(さい)、古い写真を参考(さんこう)にしながら復元(ふくげん)されたものです。

シャンデリアが印象的(いんしょうてき)

舞台(ぶたい)(うら)にも工夫(くふう)()らされています。大道具(おおどうぐ)(ひか)え室にはいろりがあります。出番(でばん)前の太鼓(たいこ)(かわ)(かわ)かすためにおかれていたのです。湿(しめ)った(かわ)では()い音が出ないからです。さらに、小道具(こどうぐ)部屋(べや)には道具(どうぐ)(かかり)が作った道具(どうぐ)()かれています。ひとつひとつに人間の手仕事のあとを(かん)じることができます。

芝居(しばい)必要(ひつよう)道具類(どうぐるい)

今は(うつく)しく(よみがえ)った「八千代座(やちよざ)」ですが、困難(こんなん)時期(じき)があったことは(すで)()べた通りです。この先、永遠(えいえん)に今の状態(じょうたい)(つづ)くかどうかはわかりません。けれども、「八千代座(やちよざ)」を大切に思う人々の心があれば、これからも(みな)の心の灯火(ともしび)となる芝居(しばい)小屋(ごや)として、末長(すえなが)(つづ)いていくのではないでしょうか。

今度、熊本(くまもと)に行くことができたら、「八千代座(やちよざ)」に行き、生で芝居(しばい)()たい、それが私の新しい(ゆめ)になりました。

参考(さんこう)文献(ぶんけん)

『八千代座と組合の歴史』 八千代座組合 元組合長 前田博文 令和4年

文:三浦暁子

写真:ACフォト/三浦暁子

(2023.9.1)

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