私にとっての東京
東京と聞くと、大都市で、人間関係が冷たいという印象があると、よく耳にします。たぶん、それも間違ってはいないのでしょう。けれど、少なくとも私にとっての東京は、強くて、優しくて、人知れず誰かを受け入れながら、ときどきどうしようもない静けさを抱え込んで、寂しそうに見えます。
私の心の中の東京は、一つ一つの駅と、一本一本の線路とで出来上がっていると思います。市ヶ谷駅から、私の東京の旅は始まります。近くの日本語学校に通っていたものですから、そのあたりを理由もなくうろつくことが多く、今思えば、特に用事があったわけでもないのに、毎日同じ道を歩いていた気がします。放課後になると、友だちと市ヶ谷橋を渡り、向こう側にある大学の食堂で、昼とも夕方ともつかない時間をだらだらと過ごしました。春になると、橋に立って、下を走り抜けていく総武線の電車を、ぼんやりと、ただ眺めていました。もしそのとき、そよ風でも吹いていたなら、桜が舞ったのかもしれません。
また、都営新宿線に乗って、神保町にある書道教室の稽古へ行く前には、だいたい決まって、町の隅っこによくある喫茶店に寄っていました。コーヒーを飲みながら、特に中身のない話をして、よく人気のなさそうな小説を読んで時間を潰していた気がします。稽古が終わると、まだ乾ききっていない半紙を適当に巻いて、古本屋に潜ります。気がつくと、日が暮れるまでうろうろしていて、だいたい最後はマスターに閉店だと言われて追い出されます。それでもまだ帰る気になれず、そのままぶらぶら歩いて、いつの間にか九段下まで来てしまいます。途中で、そういえば今日は月曜日だったか、あるいは金曜日だったか、と思い出します。それは東御苑には入れない日です。そんなことを何度も繰り返しているうちに、東京に来て8年目になるのに、私はまだ一度も皇居の中に入ったことがありません。それでも、行き先も理由もはっきりしないまま歩いている私を、東京はいつも特に咎めることもなく、そのまま受け止めていたように思います。
今振り返れば、意味のあることはほとんどしていません。ただ歩いて、寄り道をして、帰るだけです。それでも、その積み重ねの中に、私にとっての東京がいつの間にか出来上がっていて、今もそれは、特に形を変えずに残っています。
文:ケイ
写真:写真AC
(2026.02.27)