港川遺跡
*港川遺跡を知っていますか?
沖縄に旅行したとき、以前から行きたかった八重瀬町にある「港川遺跡」を見に行きました。ここは港川フィッシャー遺跡とも、呼ばれています。港川は場所の名前です。フィッシャーは崖の割れたところという意味です。ここは沖縄の旧石器時代を代表する遺跡です。「港川人」と呼ばれる人の骨が発見された場所として、有名です。現在では「港川遺跡公園」として整備されています。
遺跡の見学は楽しい体験です。けれども、遺跡よりも、「港川人」の骨を発見した大山盛保の物語が、私にとってもっと魅力的です。
港川人を発見したのは、考古学の専門家ではありません。大山盛保という名の一人の考古学ファンです。彼が発掘を行った結果、その後「港川人」と呼ばれるようになった人間の全身の骨を発見することができたのです。その情熱は、多くの人の心を動かし、学者たちも発掘に協力しました。
港川遺跡公園の上を通る港川バイパス
大山盛保は、沖縄の北中城村で生まれました。15才のとき、家族がカナダに移住することになり、一緒にカナダに渡りました。より良い生活を求めてのことでしょう。慣れない外国生活で苦労も多かったことでしょう。それでも、大山の家族は皆で力をあわせ、森林を開拓し、大きな農場を経営するようになりました。成功をおさめたのです。嬉しく、誇らしかったことでしょう。
農場の経営は順調でした。ところが、不幸なことに、日本はアメリカと戦争を始めました。日本人である大山一家は、すべての財産を没収され、収容所に入れられてしまいます。戦争が終わった後も苦しみは続き、故郷である沖縄に帰ってきました。他の道はなかったのでしょう。絶望したに違いありません。けれども、彼は負けませんでした。カナダで覚えた英語力を生かし、通訳として活躍するようになります。そして、実業家として成功をおさめ、沖縄初のガソリンスタンドなどを経営するようになりました。
彼は子どもの頃から、ひたすら働いていました。学校に通う余裕はなく、商売に励む日々でしたから、学問には縁のない日々を過ごしていたのです。ところが、1967年、55歳のとき、人生を変えるきっかけになった大きなできごとが起こります。家の庭の池をつくるために買った石灰岩の中に、動物の化石が付着していることに気が付いたのです。興味を持った大山は、その石がどこから来たのか調べてみました。すると、沖縄県具志頭村(現在の八重瀬町)の石だとわかりました。
彼は珍しいものや知らないものを調べるのが好きな性格でした。自分の手で発掘して、「動物の化石があるのなら、それを追う人間がいたはずだ」と考え、なぜそこに化石があるのか明らかにしようと決心しました。忙しい仕事の合間をぬって採石場に通い、ひたすら発掘を続けました。そして、とうとう、のちに、「港川人」とよばれるようになる人の骨の一部を発見したのです。彼は誰かに頼まれて発掘したわけではありません。必要な費用は自分で支払いました。家族や社員も彼を助けてくれました。
どうしてここまで発掘に熱心になったのでしょう。きっと何かがあるという勘が働いたのでしょうか? それとも、発掘が楽しくてたまらなかったのでしょうか? 私は次第に、「港川人」の存在より、大山盛保という人物に心を奪われていきました。
改めて考えてみると、考古学で、世紀の大発見を果たしたのは、専門家とは限りません。日本の岩宿遺跡の発見者として名高い相沢忠洋は、もとは商品を売り歩く行商人でした。彼は自分で考古学を学び、研究を続けました。
ツタンカーメンの墓を発見したハワード・カーターも、高等教育を受けてはいませんでした。彼は一人で学び、自分の勘を信じてスコップで地面を掘り、すばらしい結果を残したのです。
港川人骨格標本(レプリカ)
地層が確認できます
「港川人」には、まだいくつかの謎が残っています。旧石器時代の骨であることは間違いありません。ただし、発見されたのは人の骨だけで、彼らが使っていたであろう道具が発見されていないのです。なぜ、数体分の人の骨がまとまって、崖の割れ目であるフィッシャーの中から発見されたかについても、意見が分かれています。いずれの説が正しいかは、今後の研究を待つほかありません。それでも、大山盛保の情熱は、今も考古学者達の記憶に残り、私たちの心を動かします。
2016年に「港川遺跡」は歴史の中で重要な場所である「史跡」に指定されました。ぜひ、行ってみてください。
港川遺跡の上部から、雄樋川が見渡せます
沖縄には、他にも興味深い遺跡がたくさんあります。これからも、沖縄の遺跡を旅して歩きながら、その発見に全力をつくした人物について調べたいと思います。
文:三浦暁子
写真:八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館/三浦暁子
(2023.3.3)