冬の俳句②
「極月や 雪山星を いただきて」飯田蛇笏
この句を詠んだ飯田蛇笏(1885年~1962年)はどのような人物だったのでしょうか。
飯田蛇笏は、1885年に山梨県で生まれました。幼いころから文学や俳句に親しむ環境だったようで、それが蛇笏の基礎を作りました。中学から大学にかけて俳句や詩を作ることに励みました。大学では「早稲田吟社」という句会の中心メンバーとして活躍し、俳句の雑誌「ホトトギス」にも作品を発表しました。その後、大学を退学し、山梨に戻って俳句を作り続けました。1917年には俳句の雑誌「雲母」を作り、山梨の俳句の発展に力を注ぎました。蛇笏は学生時代以外のほとんどを山梨の自然の中で過ごしたためか、彼の俳句には大きな自然や季節の変化がよく出てきます。その美しく、静かで上品な言葉からは、蛇笏の自然に対する深い尊敬の気持ちが感じられます。自然を美しく表現しているという点で、俳句の神様である松尾芭蕉のようだと評価されることもあります。自然を愛し、自然と深く向き合いながら生きた俳人だったのでしょう。
飯田蛇笏
朝日新聞社, Public domain, via Wikimedia Commons
蛇笏には5人の息子がいましたが、そのうち長男と三男は戦争で亡くなり、次男も若いときに亡くなっています。子どもに死なれるという悲しい経験も、蛇笏の俳句に影響を与えているかもしれません。四男の飯田龍太(1920年~2007年)は蛇笏の後を継ぎ、俳句の道に進みました。蛇笏にとっては大きな希望だったことでしょう。
山梨県甲府市には山梨県立文学館があり、その中に「飯田蛇笏・飯田龍太記念室」があります。そこで蛇笏や龍太の俳句の世界に触れることができます。機会があったら、ぜひ訪ねてみてください。
■山梨県立文学館ウェブサイト
文:新階由紀子
画像:写真AC/ウィキメディア・コモンズ
(2025.12.5)