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弱法師(よろぼし)(1915年)

この絵は、下村(しもむら)観山(かんざん)(1873年〜1930年)の《弱法師(よろぼし)》です。下村(しもむら)観山(かんざん)は、明治時代(めいじじだい)(1868年〜1912年)の画家(がか)で、狩野芳崖(かのうほうがい)橋本雅邦(はしもとがほう)師事(しじ)し、東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)(現在の東京芸術大学(とうきょうげいじゅつだいがく)美術学部(びじゅつがくぶ))の第一期生(だいいっきせい)として入学しました。卒業後(そつぎょうご)は、母校(ぼこう)で教えていましたが、1898年横山大観(よこやまたいかん)と共に日本美術院(にほんびじゅついん)創設(そうせつ)参加(さんか)しました。1903年から1905年まで、文部省(もんぶしょう)の留学生としてイギリスに(わた)り、ヨーロッパ各地を(めぐ)っています。
弱法師(よろぼし)」は、(のう)謡曲(ようきょく)(脚本に相当するもの)の一つで、足腰(あしこし)(よわ)り、よろよろと歩くお(ぼう)さん、という意味です。(うめ)の花が咲く2月頃、高安通俊(たかやすみちとし)という人物が、()が子を()い出した過去(かこ)()いて、大阪にある四天王寺(してんのうじ)(まず)しい人々へ(ほどこ)しを(おこ)なっていると、弱法師(よろぼし)()ばれる目が見えない青年(せいねん)がよろよろと(つえ)をつきながら四天王寺(してんのうじ)(にわ)にやってきます。日暮(ひぐ)れに(しず)夕陽(ゆうひ)に向かって(おが)んでいる青年(せいねん)こそ、かつて()ててしまった()が子だと気づいた通俊(みちとし)は、弱法師(よろぼし)を連れて家に帰って行った、という()(めん)を42歳だった観山(かんざん)は、2枚の屏風(びょうぶ)に描きました。
観山(かんざん)は、横浜にある三渓園(さんけいえん)(うめ)の木に着想(ちゃくそう)()て、この絵を描いたと言われています。右側の屏風(びょうぶ)には全面的に(うめ)の木が力強く描かれ、(ふと)(みき)とは対照的(たいしょうてき)に白くて可憐(かれん)(うめ)の花が()りばめられています。(つえ)をついた弱法師(よろぼし )は、目には(うめ)が見えないものの、その(かお )りを楽しんでいるようです。
反対に、左の屏風(びょうぶ)には落ちていく夕陽(ゆうひ)がくっきりと描かれ、空がオレンジ色に広がり、初春(しょしゅん)(あたた)かさまでが伝わるようです。その夕陽(ゆうひ)の中にたたずみ、(いの)りを(ささ)げる弱法師(よろぼし)の顔は(おだ)やかで、(のう)(めん)のようにも見受(みう)けられます。

明治以降(めいじいこう)西洋(せいよう)文化が急速(きゅうそく)に広がった日本において、洋画(ようが)と呼ばれる西洋画(せいようが)(さか)んになりました。その一方で、日本画家(がか)横山大観(よこやまたいかん)菱田春草(ひしだしゅんそう)朦朧体(もうろうたい)と呼ばれる新しい画法(がほう)模索(もさく)していました。観山(かんざん)当初(とうしょ)大観(たいかん)春草(しゅんそう)と共に朦朧体(もうろうたい)による表現(ひょうげん)に取り組んでいました。彼の高い構成(こうせい)(りょく)繊細(せんさい)なタッチは、伝統的(でんとうてき)な日本絵画(かいが)にも見られる多くの共通点(きょうつうてん)()()いでいたと言えるでしょう。観山(かんざん)は1930年に57歳で()くなるまで、古画(こが)研究(けんきゅう)(つづ)けました。1913年に岡倉天心(おかくらてんしん)()くなった翌年(よくねん)日本美術院(にほんびじゅついん)再興(さいこう)し、近代(きんだい)日本画の中心的(ちゅうしんてき)存在(そんざい)として、日本画壇(がだん)(ささ)(つづ)けたのでした。《弱法師(よろぼし)》は現在(げんざい)東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)所蔵(しょぞう)されています。

文:Naoko Ikegami

画像:ColBase(部分画像はColBaseをもとに作成)/近代日本人の肖像

(2025.10.7)

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