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唐獅子(からじし)()屏風(びょうぶ)(16世紀)

この絵は狩野永徳(かのうえいとく)(1543年〜1590年)の《唐獅子(からじし)()屏風(びょうぶ)》です。狩野永徳(かのうえいとく)は、安土(あづち)桃山(ももやま)時代(じだい)(1573年〜1603年)の絵師(えし)で、狩野派(かのうは)と呼ばれる画派(がは)の有名な画家(がか)です。狩野永徳(かのうえいとく)は京都で生まれ、織田(おだ)信長(のぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)(つか)え、安土城(あづちじょう)聚楽第(じゅらくだい)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が京都に建てた大きな邸宅(ていたく))、大阪城(おおさかじょう)などの室内を(かざ)障壁画(しょうへきが)制作(せいさく)しました。なお、狩野派(かのうは)とは、狩野正信(かのうまさのぶ)から始まった、室町時代(むろまちじだい)(1336年〜1573年)から江戸時代(えどじだい)(1603年〜1868年)まで(やく)400年続く日本画の中心的な流派(りゅうは)のことで、永徳(えいとく)は、正信(まさのぶ)のひ孫にあたります。

狩野永徳(かのうえいとく)の作品は、(ゆた)かな色彩(しきさい)とスケールの大きな力強(ちからづよ)いものが多く、この《唐獅子(からじし)()屏風(びょうぶ)》も、(たて)が約2.2メートル、(よこ)が約4.5メートルの大作(たいさく)です。そのため、以前は(しろ)大広間(おおひろま)(かざ)(しょう)壁画(へきが)だったものを、屏風(びょうぶ)にしたのではないかとも考えられています。信長(のぶなが)秀吉(ひでよし)は、その絶対的(ぜったいてき)な力と威厳(いげん)を他の武士(ぶし)(しめ)必要(ひつよう)がありました。彼らの(しろ)の中心的な建物(たてもの)大広間(おおひろま)(かざ)られたパワフルで雄大(ゆうだい)永徳(えいとく)の絵は、その演出(えんしゅつ)の一部を(にな)ったと言えるでしょう。

それでは、絵をよく見ていきましょう。岩の間を歩く二匹(にひき)雌雄(しゆう)獅子(しし)(えが)かれています。インドから中国、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)()て日本に伝わって来た獅子(しし)は、聖獣(せいじゅう)神獣(しんじゅう)として邪気(じゃき)(病気などを起こす悪い気)を(はら)魔除(まよけ)意味(いみ)を持つようになりました。この絵の獅子(しし)は、堂々(どうどう)としていてその重量感(じゅうりょうかん)さえ伝わって来ます。構図(こうず)はシンプルですが、大柄(おおがら)獅子(しし)たちの(いさ)ましさや迫力(はくりょく)が感じられます。

金色の(くも)
曲線(きょくせん)のたてがみ
(とが)った山々や岩肌(いわはだ)

金箔(きんぱく)()った下地(したじ)の上に獅子(しし)たちが(えが)かれ、また左上の(くも)や岩の下の地面(じめん)獅子(しし)()にも金色が使われています。獅子(しし)たちの顔や体だけでなく、たてがみや()の毛も、多くの丸味(まるみ)を帯びた曲線(きょくせん)(えが)かれ、立体感(りったいかん)表現(ひょうげん)されていますが、対象的(たいしょうてき)背景(はいけい)の山々や岩肌(いわはだ)(とが)った直線(ちょくせん)で描かれ、荒削(あらけず)りな質感(しつかん)が表されています。

江戸時代(えどじだい)になってから、これと(つい)になる屏風(びょうぶ)狩野永徳(かのうえいとく)のひ(まご)にあたる狩野常信(かのつねのぶ)(1636年〜1713年)が補作(ほさく)しました。現在は、両方合わせて皇居(こうきょ)三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)収蔵(しゅうぞう)されています。

文:Naoko Ikegami

画像:ColBase(部分画像はColBaseをもとに作成)

(2025.4.15)

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