もう何年も前のことになります。飛行機に乗ったときのことです。
私は通路側の席だったのですが、窓際に外国人の青年が座っていました。
私は自分のバッグを荷物置き場にのせ、席につきました。すると、彼が膝の上に大きな鞄を抱えているのに気づきました。
「お荷物、のせましょうか?」と、私は英語で聞きました。
すると、彼は「そんなわけにはいきません」と、首を振ります。
考えてみると、私は彼の母親くらいの年齢ですし、女性です。レディファーストの教育を受けているであろう彼からしたら、それは許されないことだったのかもしれません。遠慮するのも当然です。
それでも、私はもう一度言いました。「あなたの鞄、私が荷物入れに入れます」と。
彼が左手を怪我していると気づいたからです。ギプスをしています。これでは鞄を上にあげることはできません。
「気にしないでください。私は力持ちですから」。私がそう言うと、彼は少し笑い、恥ずかしそうに「ではお願いします」と、答えました。そして、不自由な手で鞄から1冊の本を取り出したあと、私に鞄をわたしてくれました。
実は、私は力持ちではないので、鞄をのせるときぐらついてかなり恥ずかしい思いをしました。彼には私のうそがわかったでしょう。
飛行機が飛び立ってすぐ、彼が日本語の本を読んでいることに気づきました。もしかしたら、日本語に堪能だったのかもしれません。それなのに、私は下手な英語で話しかけてしまったようです。私はなんだか恥ずかしくなりました。
飲み物が配られるとき、「あなたは日本語ができるのですね? 何を読んでいるのですか?」と、尋ねました。すると、彼は「いいえ。私は日本語はほんの少ししかできません」と言うではありませんか。
そして、読んでいるのは村上春樹の小説だと教えてくれました。彼はハルキ・ムラカミが大好きで、彼が生まれた国を見たくて、はるばる日本にやって来たのだそうです。日本語はまだ読めないけれど、英語で何度も何度も読んだので、筋を追うくらいはできるようになりたいと日本語に触れているのだそうです。
私は驚きました。私は外国の小説を読むとき、いつも翻訳されたものを読みます。大好きな作家はサマセット・モームですが、英語で読もうと思ったことはありません。たいしたものだと感心しましたが、それを伝える英語力がなかったので、ただ「日本はどうでした? ハルキ・ムラカミの国に来て満足でしたか?」と、聞きました。
すると、彼は深くうなずいたあと、こんな話をしてくれました。
念願の旅で、とても楽しい滞在だった。ただ、もうすぐ帰国すると焦っていたのが悪かったのか、うっかりドアに指を挟み、骨折してしまった。応急処置をしたものの、動かすとかなり痛いので、鞄をあげてもらってとても嬉しかったとのことでした。
飛行機が着陸すると、私は「鞄、下ろしますね」と、言いました。彼は今度は遠慮せず、ありがとうと笑いました。そして、少し不思議な言葉を残しました。
「あなたはとてもハルキ・ムラカミに似ていますね。鞄を上にあげましょうか? と聞かれたとき、僕はあなたをハルキ・ムラカミみたいだと思いました」と。
よく意味がわからなかったのですが、それでも、彼が喜んでいるのはわかりました。
その日以来、私は時々思います。あの青年はもう村上春樹の本を日本語で読むことができるようになっているだろうか? また日本に来ただろうか? 指の怪我は治っただろうか? 日本に来て、たくさんの村上春樹に似た人や物に会えただろうか? と。
そして、最後にいつもこう思うのです。
私はハルキ・ムラカミに似ているのだろうか? 似ていたら、嬉しいなと。
文・三浦暁子
写真・フォトAC
(2023.8.8)
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