沖縄の首里城の南に「識名園」と呼ばれる庭園があります。琉球王家最大の別邸(別荘)として名高いところです。沖縄は1429年から1879年の450年もの間、「琉球」と呼ばれ、王家が統治していました。
*「識名園」はいつできたのか?
「識名園」は、1783年、琉球王である尚穆の時代に造られ始めたと言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。ただし、完成したのは1799年で、尚温王時代の1800年に中国からの使節を迎え入れたという記録が残っています。その後、1945年の沖縄戦によって戦火を受け、「識名園」は完全に破壊されてしまいます。けれども、1975年から復元整備が始まり、約20年の年月と約8億円もの費用をかけ、元の姿を取り戻しました。2000年にはユネスコ(UNESCO)の世界遺産にも登録されています。
御殿からの眺め
「識名園」は首里城の南に位置しています。かつて、首里城の東には「御茶屋御展」(ウチャヤウドゥン)と呼ばれる別の御殿があり、そこは「東苑」と呼ばれていました。「識名園」は南にあるので「南苑」と呼ばれることもあります。現在の住所で言うなら、那覇市字真地421番地です。バスで行くこともできますし、タクシーや車を使うのも便利です。
*誰が、なんのために作ったのか?
識名園は尚王家が国王一家の保養地として作った場所です。同時に外国の使節をもてなすという大事な役割も持っていました。前にも述べたとおり、1800年には、中国から尚温王の冊封のために訪れた正使をもてなすために使われています。冊封とは、中国の歴代王朝が周辺の国々との秩序を維持するため、称号や任命書、そして印章などの受け渡しを行うことです。
琉球王国を維持するため、中国との友好関係を保つのはどうしても必要なことでした。王家の別邸は迎賓館として使われ、接客の役割をになう大切な場所として機能していたのです。
識名園 全景
*「識名園」の特長
「識名園」は池のまわりを歩きながら景色を楽しむように出来ています。いわゆる「廻遊式庭園」と呼ばれる庭です。こうした造園形式は沖縄だけのものではありません。日本全国の大名(昔の領主)たちも、この形式の庭を造り、おおいに楽しみました。
ただ、「識名園」には沖縄ならではの特長があります。たとえば、池に浮かぶ島にある六角堂という建物を眺めると、屋根の形や瓦が黒く色づけされ、中国風の趣を添えているのに気づくでしょう。池にかかる橋は、中央が高くなっており、中国風のデザインになっています。そして、橋は琉球石灰岩という石で出来ています。その独特の風合いは、琉球ならではのものといえます。
沖縄の材料で作られた中国風の建物は、中国からの使節に深い感銘を与えたに違いありません。おもてなしの心を感じさせる建物です。
六角堂
「識名園」はいつ行っても、花が美しく咲き乱れていることに驚かされます。沖縄は一年を通じて夏のような季節が続く土地で、「常夏」と表現されています。いつも夏のような季節だという意味です。確かに、日本の他の地域に比べ、四季を感じるのが難しいかもしれません。けれども、春夏秋冬を感じさせる花々を工夫して植えることで、賓客の心をつかもうと努力していました。季節ごとに咲き乱れる花は、旅の疲れを癒やすものであったでしょう。
現在、訪れた人の安全のため、ハブ(毒をもったヘビ)に注意の看板があることも、注目に値します。来客に安全に過ごして欲しいとの願いからでしょう。さらには、滑りやすいところを示す「滑り止めマップ」もあります。雨に濡れた琉球石灰岩は滑りやすいので、注意を促す思いやりです。
こんな看板も
さらに、船着き場をもうけたり、清らかな水をたたえた泉があったりするなど、すがすがしい雰囲気を感じるようになっています。広大な庭園に見えるようにたくさんの工夫がなされていることにも驚きます。「識名園」はただゆっくり過ごすためだけの庭園ではなく、外国使節をもてなし、琉球という国を世界に宣伝しようとする意図を持っている場所でもあるのです。これも一種の戦略と言っていいのではないでしょうか。
識名園にある橋や石畳の道は、沖縄で産する琉球石灰岩で作られています。この岩を使って出来上がった橋や道を眺めていると、中国と沖縄、そして、沖縄と日本本土を結ぶ存在になろうと主張しているように思えます。
琉球の時代も、沖縄になってからも、安らぎを保つための努力を惜しまなかった場所、それが「識名園」だと言えるでしょう。
文:三浦暁子
写真:三浦暁子
(2024.8.20)
You cannot copy content of this page