日本語多読道場 yomujp
紅葉(こうよう)は私たちに幸福(こうふく)を与(あた)えてくれます
日本には四季(しき)があります。春・夏・秋・冬の4つです。それらをまとめて、春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)と呼(よ)ぶときもあります。それぞれの季節(きせつ)にそれぞれの特徴(とくちょう)があります。
春には春の花が咲(さ)きます。とくに、桜(さくら)は春に咲(さ)く花の代表(だいひょう)です。みんながお花見を楽しみにしています。
夏の花というと、ひまわりや朝顔(あさがお)、秋は菊(きく)やコスモス、冬になると、梅(うめ)やシクラメンといったところでしょうか。
それぞれの季節(きせつ)ならではの食べ物もあります。春といえば、筍(たけのこ)です。春が来ると、筍掘(たけのこほ)りに行く人もいます。夏はすいかを食べるのが楽しみですし、秋はかぼちゃやさつまいも、冬はみかんや白菜(はくさい)などがおいしい季節(きせつ)です。
最近(さいきん)では、冷凍技術(れいとうぎじゅつ)が発展(はってん)し、こうした季節(きせつ)を楽しむ気持ちも薄(うす)れてきたように感(かん)じます。それでも、私たちが季節(きせつ)を意識(いしき)し、大切に思うことに変(か)わりはありません。
もしかしたら、ただ暮(く)らすだけなら、四季(しき)がある国よりも、気温(きおん)の差(さ)がない国の方が楽かもしれません。特に、一年中あたたかい国は身体(からだ)も心も快適(かいてき)に生活(せいかつ)できます。
常(つね)に春だったり、常(つね)に夏だったりすれば、季節(きせつ)ごとに服を変(か)える必要(ひつよう)もありません。季節(きせつ)が変(か)わるときに、しばらく使わない服を洗(あら)って、タンスにしまうことを衣替(ころもが)えと呼(よ)びますが、これは案外(あんがい)手間がかかる作業です。
けれども、四季(しき)のある国では、季節(きせつ)の変化(へんか)を楽しむことができます。風景(ふうけい)が変(か)わる美(うつく)しさを味わうこともできます。同じところにいても、春夏秋冬、景色(けしき)がまったく異(こと)なって見えるからです。四季(しき)には自然(しぜん)の姿(すがた)を変(か)えさせる不思議(ふしぎ)な力があるようです。
秋の楽しさ
私が一番(いちばん)好きな季節(きせつ)は秋です。栗(くり)や柿(かき)など、おいしい果物(くだもの)が実(みの)る季節(きせつ)だからです。何よりも、紅葉(こうよう)を楽しむことができるのがうれしくてたまりません。紅葉(こうよう)とは、イチョウやモミジなど、樹木(じゅもく)の葉(は)の色が変(か)わることをさします。夏には、青々(あおあお)としていた葉(は)が、秋が近づくにつれて、段々(だんだん)、赤や黄色(きいろ)になっていきます。その変化(へんか)を楽しむのは、すばらしい体験です。寒(さむ)さが厳(きび)しくなり、葉(は)が落(お)ちる前になると、突如(とつじょ)真っ赤に変(か)わる葉(は)もあります。
それはまるで樹木(じゅもく)が、私たちに「さようなら」と、別れのあいさつをしているような切(せつ)なさがあります。
そのためでしょうか。
紅葉(こうよう)が始まったというニュースを耳(みみ)にすると、休日には、たくさんの人がお寺(てら)や山など、イチョウやモミジがたくさんある場所(ばしょ)に向(む)かいます。
葉(は)の色が変わったということは、寒(さむ)さが厳(きび)しくなったということでもあります。気温(きおん)が下がると、葉(は)の色はいっそう赤くなっていくからです。それでも、私たちは、コートを着て、マフラーを首(くび)に巻(ま)き、紅葉(こうよう)を見に行(い)くのです。
そうした一連(いちれん)の行動(こうどう)を「紅葉狩(もみじが)り」と呼(よ)びます。「狩(か)り」といっても、動物を狩(か)りに行くわけではありません。ただ、紅葉(こうよう)の美(うつく)しさを味わいに行くのです。短歌(たんか)を詠(よ)む方は、材料(ざいりょう)を探(さが)すいい旅になることでしょう。写真が好(す)きな方は、紅葉(こうよう)した色をカメラに効果的(こうかてき)におさめようとします。それぞれの人に、それぞれの「紅葉狩(もみじが)り」の楽しみ方があるのです。
私はといえば、とくに目的(もくてき)は持っていません。短歌(たんか)も詠(よ)みませんし、写真も必要(ひつよう)なとき以外は撮影(さつえい)しません。葉(は)の色の変化(へんか)を楽しむだけで、十分(じゅうぶん)に満足(まんぞく)しています。日本人(にほんじん)に生まれてよかったと思うのは、こういう瞬間(しゅんかん)です。
もちろん、紅葉(こうよう)は日本人(にほんじん)限定(げんてい)の楽しみではありません。外国の方も楽しむことができます。最近(さいきん)は、インターネットなどで、情報(じょうほう)を集(あつ)めてから来る観光客(かんこうきゃく)も多いそうです。日本(にほん)に住んでいる私より、日本(にほん)の紅葉(こうよう)にくわしい外国人もたくさんいらっしゃることでしょう。
日本(にほん)は、北は北海道(ほっかいどう)から南は沖縄(おきなわ)まで、紅葉(こうよう)する範囲(はんい)が広く、楽しむ時間が長く続(つづ)きます。紅葉(こうよう)を楽しむことができる地域(ちいき)も広いです。「日本語多読道場」には、「紅葉狩(もみじが)り」の記事(きじ)があり、日本全国(にほんぜんこく)の紅葉(こうよう)を解説(かいせつ)しています。あなたが紅葉狩(もみじが)りしたいと思う土地(とち)を探(さが)してみてはいかがでしょう。
そういえば、息子(むすこ)がまだ幼(おさな)かった頃(ころ)、遠足(えんそく)で紅葉狩(もみじが)りに行ったことがあります。帰宅(きたく)した息子(むすこ)に「紅葉(こうよう)どうだった?」と、聞くと、「おいしかったよ」という返事(へんじ)がかえってきました。どうやら、紅葉狩(もみじが)りに行った大阪(おおさか)の箕面(みのお)という場所(ばしょ)で、紅葉(もみじ)の天ぷらを食べたようです。「きれいだったよ」という返事(へんじ)を期待(きたい)していた私は、思わず笑(わら)ってしまいました。紅葉(こうよう)は目で見て美(うつく)しく、口で味わうとおいしいものだと知りました。
身近(みぢか)にある紅葉狩(もみじが)り
もしあなたが観光(かんこう)旅行に行く時間やお金に余裕(よゆう)がなくても、がっかりすることはありません。周囲(しゅうい)を見回(みまわ)せば、驚(おどろ)くほど身近(みぢか)なところに美(うつく)しい紅葉(こうよう)があることに気づくでしょう。
私は現在(げんざい)、神戸(こうべ)に住んでいますが、先日、夫(おっと)の母に会うために、東京(とうきょう)に行きました。家に着いたのは夜だったので気づきませんでしたが、朝、起きて驚(おどろ)きました。庭(にわ)のモミジが真っ赤だったからです。
自宅(じたく)に植(う)えてあるものですから、特別(とくべつ)な木ではありません。夫(おっと)の母が子どもの頃(ころ)から住んでいる家の庭(にわ)にずっとある普通(ふつう)の紅葉(もみじ)です。母から聞いた話では、家を建てるとき、あたりは畑(はたけ)だったそうです。その時、すでに紅葉(もみじ)の木があったそうです。となりの畑(はたけ)との境界(きょうかい)を区切(くぎ)るための目印(めじるし)として植(う)えられていたのですが、そのまま庭(にわ)の木になりました。たいした手入れもしないのに、どんどん大きくなり、毎年、秋になると紅葉(こうよう)します。
夫(おっと)の母は今年で90歳(さい)になります。紅葉(もみじ)のある今の家に引(ひ)っ越(こ)してきたのは、2歳(さい)になった頃(ころ)だそうです。つまり、庭(にわ)にある紅葉(もみじ)は90年以上、母を見守(まも)りながら、枝(えだ)を広げ、紅葉(こうよう)していたことになります。考えてみると、不思議(ふしぎ)です。誰(だれ)かに命令(めいれい)されたわけでもなく、頼(たの)まれてもいないのに、ただ季節(きせつ)が来る度(たび)にその身(み)を赤く変(か)えるのですから。自然(しぜん)に身(み)をまかせて生きるとは、こういうことを指(さ)すのでしょう。私たちが紅葉狩(もみじが)りに出かけるのも、過去(かこ)と現在(げんざい)、そして今を感(かん)じさせる木々(きぎ)に会いたいからかもしれません。
文:三浦暁子写真:岡野秀夫・三浦暁子(2022.2.24)