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夏秋(なつあき)(くさ)()屏風(びょうぶ)(19世紀)

秋草
夏草

この絵は、酒井抱一(さかいほういつ)(1761年〜1829年)の《夏秋(なつあき)(くさ)()屏風(びょうぶ)》です。酒井抱一(さかいほういつ)江戸時代(えどじだい)(1603年〜1868年)後期(こうき)絵師(えし)で、姫路(ひめじ)藩主(はんしゅ)(現在の兵庫県西南部(ひょうごけんせいなんぶ)(おさ)めていた武士(ぶし))である酒井忠恭(さかいただずみ)(まご)として江戸(えど)(今の東京)で生まれ育ちました。絵画(かいが)だけでなく、文学でも才能(さいのう)を見せ、芸術(げいじゅつ)趣味(しゅみ)の世界に没頭(ぼっとう)する生活をおくっていました。しかし、酒井家(さかいけ)世代交代(せだいこうたい)もあり、37歳で出家(しゅっけ)してしまいます。そして、一時酒井家(さかいけ)(つか)えていた尾形光琳(おがたこうりん)が家に残した作品に魅了(みりょう)され、本格的(ほんかくてき)絵師(えし)になる決意(けつい)をしました。抱一(ほういつ)は、京都の(みやび)琳派(りんぱ)江戸(えど)(いき)美意識(びいしき)を合わせて江戸琳派(えどりんぱ)を作り上げ、多くの作品を(のこ)しました。

肖像画(しょうぞうが)栗原(くりはら)信充(のぶみつ)肖像集(しょうぞうしゅう)』9より)

この《夏秋(なつあき)(くさ)()屏風(びょうぶ)》は、1821年に尾形光琳(おがたこうりん)の《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》の(うら)に描かれました。屏風(びょうぶ)(うら)に絵を描くことは(めずら)しいことでしたが、当時(とうじ)光琳(こうりん)の《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》は、江戸幕府(えどばくふ)(だい)11(だい)将軍(しょうぐん)徳川(とくがわ)(いえ)(なり)の父、一橋(ひとつばし)治済(はるさだ)所有(しょゆう)しており、この治済(はるさだ)酒井家(さかいけ)依頼(いらい)したと言われています。

徳川家(とくがわけ)にとって、風神雷神(ふうじんらいじん)守護神(しゅごしん)要素(ようそ)があったようです。1821年には大かんばつ(長い間、雨が()らないこと)がありました。その後、雨が()ったことに感謝(かんしゃ)して、この屏風(びょうぶ)(うら)に描くことになったのではないかと言われています。

風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》(尾形光琳(おがたこうりん)

雷神(らいじん)
風神(ふうじん)

それでは、絵を見ていきましょう。《夏秋(なつあき)(くさ)()屏風(びょうぶ)》の右(がわ)雷神(らいじん)(うら)(がわ)に当たります)には、雨に()れて()れた百合(ゆり)昼顔(ひるがお)などの夏草(なつくさ)が描かれ、(はい)(けい)には雨水(あまみず)が流れ出していて、雨が()った後だとわかります。一方、左(がわ)風神(ふうじん)(うら)(がわ)に当たります) には、風に()(くず)藤袴(ふじばかま)野葡萄(のぶどう)などの秋草(あきくさ)が描かれています。空を()野葡萄(のぶどう)や、(うら)(がえ)ったススキの()などで風の強さがわかります。雨と風の因果関係(いんがかんけい)のような屏風(びょうぶ)前後(ぜんご)のコントラストが見事(みごと)です。

()れた百合(ゆり)
(うら)(がえ)ったススキの()

また、《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》が(きん)(ぱく)()りだったのに対し、《夏秋(なつあき)(くさ)()屏風(びょうぶ)》は銀箔(ぎんぱく)()りでした。そして、風神雷神(ふうじんらいじん)が天に存在(そんざい)するのに対し、草花(くさばな)は地の生物です。これらの対比(たいひ)抱一(ほういつ)尾形光琳(おがたこうりん)への尊敬(そんけい)(あらわ)れと共に、自分自身(じぶんじしん)美意識(びいしき)表現(ひょうげん)ではないかと考えられています。

この《夏秋(なつあき)(くさ)()屏風(びょうぶ)》は、作品保存(ほぞん)のため1974年に《風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)》から()がされ、現在は別々(べつべつ)屏風(びょうぶ)として東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)所蔵(しょぞう)されています。

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文:Naoko Ikegami

画像:ColBase(部分画像はColBaseをもとに作成)/国立国会図書館デジタルコレクション

(2025.7.29)

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