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春の俳句(はいく)

春の俳句(はいく)の2作目(さくめ)です。俳句(はいく)における「春」は、今でいうと、だいたい2月から4月のことをいいます。それをイメージして読んでみてください。

(ゆき)とけて(むら)いっぱいの 子どもかな」小林(こばやし)一茶(いっさ)

どんな様子(ようす)が目に()かびますか。

長く(きび)しい冬が終わり、()ちに()った春。(むら)全体(ぜんたい)(おお)っていた(ゆき)がとけ、(よろこ)んだ子どもたちが外へ()()して、元気いっぱい(あそ)んでいる様子(ようす)でしょうか。春の(あたた)かな日差(ひざ)しの中、子どもたちの(わら)(ごえ)が聞こえてくるようです。

この俳句(はいく)()んだ小林(こばやし)一茶(いっさ)(1763年~1827年)は、どんな人物(じんぶつ)だったのでしょうか。

一茶(いっさ)は今の長野県(ながのけん)農家(のうか)()まれました。一茶(いっさ)が3(さい)のときに母が()くなり、8(さい)のときに父が再婚(さいこん)しましたが、新しい母親(ははおや)継母(ままはは))とはうまくいかなかったようです。15(さい)のときに、(はたら)くために江戸(えど)(今の東京)に行かされ、そこで俳句(はいく)出合(であ)い、俳句(はいく)を学び始めました。その()一茶(いっさ)様々(さまざま)な土地を旅しながら、俳人(はいじん)たちと交流(こうりゅう)(つづ)け、作品を句集(くしゅう)として出版(しゅっぱん)したりしました。39(さい)故郷(こきょう)に帰って病気の父を看病(かんびょう)しますが、残念(ざんねん)ながら父は()くなってしまいます。父の遺産(いさん)をめぐって、10年以上(いじょう)継母(ままはは)(おとうと)たちと(あらそ)いが(つづ)いたといいます。

父の死後(しご)一茶(いっさ)江戸(えど)()らしていましたが、50(さい)のとき、(ふたた)故郷(こきょう)に帰ります。「(ゆき)とけて~」の俳句(はいく)は、このときに()まれたものです。一茶(いっさ)故郷(ふるさと)(ゆき)がかなり()地域(ちいき)で、大人(おとな)()まってしまうほどでした。

それほどの(ゆき)季節(きせつ)が終わったのですから、外を走り(まわ)りたくなるような気持ちもわかるような気がしますね。

一茶(いっさ)が生きた時代は今と(ちが)って、冬の山の()らしは(きび)しいものでした。十分(じゅうぶん)な食べ物もなく、栄養(えいよう)不足(ぶそく)(さむ)さによって子どもが()くなることもあったようです。だからこそ、春になり、子どもたちの明るい笑顔(えがお)(たの)しげな(わら)(ごえ)に、一茶(いっさ)(よろこ)びでいっぱいになったのでしょう。

一茶(いっさ)は52(さい)結婚(けっこん)しますが、子どもも(つま)も早くに()くなってしまいます。継母(ままはは)(おとうと)たちとの(あらそ)いや、子どもや(つま)の死などつらいことの多い人生(じんせい)だったようですが、一茶(いっさ)はその生涯(しょうがい)(やく)万句(まんく)もの俳句(はいく)(のこ)しました。

一茶(いっさ)俳句(はいく)は「(せい)」をテーマにしているといわれ、子どもや小さな()(もの)、たとえば(すずめ)(かえる)などを俳句(はいく)()むことが多く、その作風(さくふう)は「一茶調(いっさちょう)」と()ばれます。小さな(いのち)(たい)する(あたた)かさは、つらいことの多かった人生(じんせい)から生まれたのかもしれません。

一茶(いっさ)記念館(きねんかん)

https://www.issakinenkan.com/

文:新階由紀子

画像:写真AC/Adobe Stock

(2025.2.18)

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